「もう手配を進めさせているよ。」と瑛介は言った。手配しているとは言うものの、具体的な進捗について何も聞かされていないということは、恐らく何かしらの問題が起きているのだろう。それもそうだ。彼は弘次と一戦交え、自分を救い出してくれたものの、パスポートなどはまだ弘次の手元にある。証明書がなければ、帰国手続きは相当面倒なことになる。つまり、この数日間は帰国のことなど考えないほうがよさそうだった。でも、別荘にずっと閉じこもっているのも退屈で仕方がない。朝食を済ませた後、すぐに医者が瑛介の包帯を替えに来た。彼の傷は重かったため、医者は自ら様子を確認しながら処置を進め、薬の注意事項なども丁寧に伝えた。その後はひなのの足の怪我も診てもらった。すべてが終わった後、健司が医者を送り出し、子供たち二人もそれぞれの部屋へ連れて行った。弥生だけがリビングに残り、瑛介が薬を飲む様子をじっと見守っていた。あの苦い薬が、まるでお菓子のように一粒ずつ彼の口に運ばれていく。眉をひそめながらも、弥生の視線があるせいで、瑛介は黙って無理に飲み込んだ。苦いが、どこか甘い感じがした。彼が薬を飲み終えたのを確認して、弥生は心の中で「今日の任務の三分の一が終わった」と思った。でも、心のどこかには、まだ拭いきれない別の不安が渦巻いていた。その不安を口に出すには、相手が瑛介であるがゆえに、弥生はためらいを感じていた。その様子を察した瑛介は、そっと尋ねた。「......何か言いたいことがあるのか?」その声に、弥生はしばらく彼を見つめたあと、結局その言葉を胸にしまいこんだ。かすかに首を横に振り、「ううん、何でもない」瑛介はそれ以上は何も言わず、ただ彼女を見守った。本当は彼女が何か話したいことを抱えているのを感じていた。でも今は、彼女自身が話す気になるのを待つしかなかった。一日中この場所にいて、昼食後、弥生は階下へ散歩に出た。ちょうど外出していた健司が戻ってくるところで、彼を見た瞬間、弥生は瑛介に聞けなかったことを思い出し、足早に彼のもとへ駆け寄った。「健司!」急ぎ足でやって来た弥生の姿に、健司はすぐに何か用件があると察して足を止めた。「霧島さん、何かご用ですか?」「ええ、ちょっと聞きたいことがあって......」そう言って
弥生はしばらく黙ったあと、こう言った。「じゃあ、私ちょっと顔を洗ってくるわ。君の傷は大丈夫?」「もうだいぶ良くなったよ。昨夜薬塗って、薬も飲んだし」その言葉に、弥生は瑛介をちらりと見た。確かに、彼の顔色は昨夜よりずっとよくなっていた。薬が効いたようで、弥生は少し安心し、洗面所へと向かった。彼女が立ち上がると、ふたりの子どもたちもすぐに後をついていった。瑛介の視線から離れたところで、ひなのが小声で尋ねた。「ママ、どうして同意しないの?」きっとそう訊かれるだろうと思っていた弥生は、軽くため息をついた。「まだその時じゃないのよ」「その時って?」「ひなの」陽平が妹の言葉を遮り、やさしく言った。「もうやめとこう。ママがいいって思ったら、そのとき教えてくれるから」兄の言葉に、ひなのは素直にうなずいた。「......うん、わかった」三人は一緒に洗面所に入った。弥生は中に入ってすぐ、子ども用の歯ブラシがきちんと用意されているのに気づいた。ブルーとピンク、それに子ども向けのカップも添えられている。一目見ただけで、弥生の心はほっと癒された。子ども用品というのは、想像以上に可愛らしいものだ。これらがあらかじめ用意されていたのか、それとも昨夜のうちに届けられたのかは分からないが......弥生はふたりの歯ブラシに歯磨き粉をつけてやった。「さあ、早く磨いて。磨き終わったら朝ごはんよ」「ありがとう、ママ!」そのとき、瑛介がやって来た。ちょうど彼の目に映ったのは、三人が並んでしゃがみながら歯を磨いている、なんとも微笑ましい光景だった。その瞬間、瑛介は思わず足を止め、しばらくその場で見つめ続けた。そして、気がつけばスマホを取り出し、カメラを起動して、その場面を撮っていた。逆光の中で撮られたその写真は、まるで壁紙にぴったりな一枚だった。瑛介はそのまま写真を壁紙に設定し、ついでにロック画面にも使った。そのあともスマホを開いたり閉じたりしては、写真を何度も眺めていた。彼がそんなふうにしているうちに、弥生と子どもたちは歯磨きを終え、立ち上がった。振り返ると、彼がその場でスマホを見つめており、顔にはどこかうっとりとしたような表情が浮かんでいた。弥生はしばらく呆然とした。次の瞬間、彼のスマホの画
かすかな物音を耳にしたとき、弥生のまつげがぴくりと動いた。眩しい光に目を開けるのが難しかったが、しばらくするとようやく慣れ、そっと目を開けた。目を開けると、少し離れた場所に陽平とひなのが立っているのが見えた。その姿を見た瞬間、弥生は自分の目を疑い、一瞬ぎょっとして、思わず上体を起こした。彼女が起き上がると、ふたりの子どもたちはすぐに駆け寄り、元気よく声をかけた。「ママ!起きたんだ!」ひなのの声が思いのほか大きく、まだ眠っていた瑛介も目を覚ましてしまった。瑛介が目を開けたのを見て、ひなのはさらに嬉しそうに声を上げた。「寂しい夜おじさん!」そう言って、嬉しそうに駆け寄り、彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。「寂しい夜おじさん、ママと一緒に寝てたよね?じゃあ、これからはひなののパパになるってこと?」ママと弘次が一緒に寝ているところなど、彼女は一度も見たことがなかった。一緒に寝るどころか、二人が親しげにしている様子すら見たことがないのだ。子どもだからといって、物事が見えないわけではない。むしろ、大人よりずっと鋭いときもある。瑛介はまさかそんなことを聞かれるとは思ってもおらず、一瞬ぽかんとしてしまった。しばらくしてようやく返事をした。「パパになるか......」彼は中に座っている弥生を一瞥し、ひなのの小さな頭に優しく手を置いた。「パパになれるかどうかは、ママの気持ち次第かな」「ママ?」ひなのは弥生の方を向いた。「うん」瑛介はうなずいた。「ママが僕をパパにしていいって言ってくれたら、僕は君たちのパパになるよ。でももしダメって言ったら、もっと頑張らないとね。ママに認めてもらえるように」それを聞いて、ひなのはすぐにソファによじ登り、弥生の膝の上に乗った。「じゃあママ、おじさんのこと受け入れたの?」弥生が答える前に、ひなのは自分で続けた。「きっと受け入れてるよね?だって一緒に寝たんだもん」もう完全に勘違いしてる。弥生は気まずそうに額に手を当てた。確かに心の中では徐々に瑛介を受け入れ始めていたのは事実だった。でも子どもたちの前でそれをはっきり口にするのは、まだ少し戸惑いがあった。なにしろ、あの頃の傷は今も癒えてはいない。......とはいえ、当時のことには彼女自身の誤解も混じっていた。で
彼女は不満げに言い返した。「やだよ。もし君が本当に不自由になったら、私、もう要らないから」「本当に?」「本当に」「そうか......僕、全力で不自由にならないように頑張るよ」「わかったならいいの」五年あまりの歳月が過ぎて、こうして何の意味もないくだらない話をしながら、静かに並んで眠ることなど、ほとんどなかった。だけど、そのくだらない話の中に、弥生は不思議なほどの穏やかさを感じていた。彼の完璧な顎のラインが目の前にあり、吐息がすぐ近くで感じられた。そこにあるのは彼の匂い、服を着替えた後で、血の匂いもなくなり、慣れ親しんだ安心できる香りだけが残っていた。そんなことを考えているうちに、弥生の行き場のなかった手が自然と彼の体に回り、そっと彼の胸元に身を預け、目を閉じた。「眠くなってきた......」彼女は小さな声で言った。「じゃあ、寝よう」「うん。もし具合悪くなったら、呼んでね」「わかった」ほどなくして、瑛介は胸に感じる呼吸が穏やかで規則的になっているのに気づいた。彼女は眠ったのだ。瑛介はそっと彼女に掛け布団を直してやり、彼女を起こさないように細心の注意を払って、痛む傷を無理に動かしながらも静かに整えた。その痛みは確かに厄介なものだったはずなのに、今、弥生が自分の腕の中にいる。それだけで、この傷さえ、まるでご褒美のように思えてしまうのだった。そう思った瞬間、瑛介の唇の端には自然と穏やかな笑みが浮かんだ。......もし今この気持ちを健司に知られたら、きっと軽蔑の目で見られながら、また何か言われるだろう。翌朝。陽平は目を覚ましたとき、ひなのがあらぬ方向に寝返りを打って寝ているのを見て、そっと布団を掛け直した。昨日はいろいろあって疲れたはずだから、少しでもゆっくり寝かせてあげたいと思ったのだ。だが、彼が布団を直した瞬間、ひなのは目を覚まし、眠そうな目で彼を見た。「お兄ちゃん......」陽平は彼女が起きたのを見て、そっと彼女を支えた。ひなのはまだ半分眠っているようで、ぼんやりと目をこすりながら座り込んだ。「お兄ちゃん、どうしてこんなに早起きなの?」そう言いながら辺りを見回し、弥生の姿がないことに気づいた。「ママは?」陽平も起きたときに弥生が一緒に寝ていなかったのに気
ようやく瑛介が納得したのを見て、弥生はようやくほっと息をついた。彼女は立ち上がり、水を一杯注いで飲んだ。ふと振り返ると、瑛介の額にはびっしょりと冷や汗が浮かんでいた。「こんなに汗かいて......傷口は大丈夫?」そう言いながら、弥生は手を伸ばして彼の額に触れた。「熱、出てるんじゃない?」手を当てた温度は少し高く感じたが、明らかな発熱ではなさそうだった。「熱はないよ」瑛介は冷静に彼女を見つめながら言った。「さっき、何してたか思い出してみて」その一言で、弥生はすぐに彼の意図を察した。彼女はさっと手を引っ込めた。よくそんな恥ずかしいことを平然と言えるなと呆れた。「寝ようか」瑛介は彼女がさっきまで寝ていた場所を指差し、目で促した。だが、さっきの出来事があって、弥生は少し迷っていた。また一緒に寝て、瑛介がまた何かしてきたら......「もう何もしないよ、約束する」「君の約束なんか信じられない。さっきだって『この体じゃ何もできない』って言ってたのに」「うん、それはさっきの話だろ? しかも、あの時は『約束する』とは言ってなかったじゃないか」言われてみれば、そうかもしれない。彼女は数秒躊躇した末、やはり元の場所に戻って寝転がった。だが、横になった瞬間、瑛介の手が伸びてきた。弥生は顔色を変え、また何か仕掛けてくるのかと思った......しかし、彼の手は、彼女の上に布団をそっとかけただけだった。その動作は決してスムーズとは言えず、どう見ても痛みに耐えている様子だった。弥生は眉をひそめ、代わりに自分で布団を引き直した。「もういいわ。君も横になって、ちゃんと休んで。私のことは気にしなくていいから」そう言って、彼女は少し布団をめくって、彼の分のスペースを作った。その仕草に、瑛介はくすりと笑い、彼女の隣にゆっくりと横になった。弥生は彼にスペースを譲ろうと、ソファの背もたれにぴったりと身体を寄せて、体を横向きにしていた。だが瑛介が横になると、スペースがあまりにも狭く、背中はソファに、前面は彼にぴったりくっついてしまった。ほかの部位ならまだしも、特に“ある部分”の密着がどうにも気まずく、弥生はそっと身体を引こうとした。だが、その途端、瑛介の腕が上がり、彼女を抱き寄せた。
手のひらに伝わる柔らかな感触に、弥生は思わず手を引こうとした。しかし次の瞬間、瑛介の手がその手をしっかりと握り締めた。肌と肌が触れ合った瞬間、弥生は彼の掌から伝わる熱が、まるで火のように熱いことに気づいた。瑛介は顔を伏せると、彼女の手のひらにそっとキスを落とした。くすぐったいような、胸の奥をそわそわさせる感覚が広がり、弥生はなんとか手を引き戻そうとした。だが、瑛介の力は意外と強く、怪我人とはとても思えないほどだった。彼の唇は手のひらから指へ、一本ずつ丁寧に、執拗にキスを落としていった。抵抗しても無駄だと感じたのは、弥生の力が及ばないからだけではない。もし無理に引き剝がそうとして、彼の傷に障ったら......その思いが彼女の抵抗を中途半端なものにし、結果として彼にされるがままになってしまった。迷いと戸惑いの中、彼の唇が首筋に触れ、さらに下へと進もうとした瞬間......「だめよ!」弥生はようやく我に返り、その手を押さえた。「君、まだ怪我してるんだから......」瑛介の喉が上下に動き、目には抑えきれない熱が宿っていた。かすれた声で返した。「平気だよ、こんなの......ちょっとした傷だ」ちょっとした傷?弥生は信じられなかった。さっきまで薬を塗るだけで冷や汗をかいていたのに......額の血管が浮かぶほどの痛みに耐えていたのに......そんな彼が、今この場で、まるで何事もなかったかのように「平気だ」なんて言うはずがあるだろうか?「だめよ!」弥生はきっぱりと言い放ち、手で彼の胸を押さえて、それ以上近づけないようにした。その間も、瑛介の傷は痛むはずだったが、それよりも欲望のほうが勝っていた。彼にとっては、痛みなんてどうでもよくなるほど、今の気持ちが強かったのだ。「......やよいちゃん」彼は耳元で甘えるように、彼女の名前を何度も呼んだ。「少しだけ、な?ほんの少しだけキスさせて。約束する、何もしないから」弥生は内心、鼻で笑いたくなった。ついさっきだって、「何もしない」って言ったばかりなのに、気づけば手も唇もやりたい放題じゃない。彼をよく知る彼女だからこそ、これ以上続けさせたら、本当に止まらなくなることが分かっていた。子供たちはすでに眠ってはいるが